電話が鳴った。

ちょうど夕飯の片付けをしていた妻が、エプロンで手を拭きながら受話器をとった。

妻の様子で、電話の相手は妻の実家の母親だとすぐにわかった。

しかし、妻はいつものように明るく話さない。終始、うんうんと頷いているだけ。

何かあったことは確かだった。そしてそれが何なのか、僕にもすぐ理解できた。

妻は受話器を置いた。

「ラム・・・・駄目だったって・・・・」

「そうか・・・」

「ついさっき。・・眠っているみたいだって・・」

「うん。」

しばらく沈黙が続いた。

 

 

妻の実家をはじめて訪れた日、

僕は、通された応接間でコチコチに緊張して妻の父親が来るのを待っていた。

ちょうど外出先から帰ってきたばかりの父親は、なかなか出てこなかった。

とても、長い時間に感じられた。

その時である。

一匹の猫・・・・いや、正確に言うと、僕はそれが猫だとは本当に思えなかった・・・

なんとも得体の知れない大きな生き物が、のそのそと障子戸の隙間から応接間に入ってきた。

そして、そいつは僕の目の前まで来るとゴロンと仰向けに転がった。

そして、上目使いに僕を見た。

確かに猫だった。

しかし・・・でかい。

妻の実家が猫を飼っていることは知っていた。

大きい猫だということも妻に聞いて知ってはいたが、これほど大きいとは思ってもいなかった。

これじゃまるでトラかライオンの子どもじゃないか・・・。

「珍しいわねー。ラムは初体面だと警戒して近寄っては行かないのにねー。」

笑いながら母親が言った。

・・・・警戒してんのは、こいつじゃない。こいつを目の前にしている人間の方だ・・・・・

僕は喉元まで出かかったセリフを必死で押さえた。

やがで父親が現われ、一通りの挨拶の後、食事が始まった。

しかし、図々しくもそのラムという猫は食事の間じゅう僕の膝の上に乗っていた。

大人しくしているかと思うと、突然、僕の胸のあたりにヌーーーッと顔を突き出して、

僕が食べようとする刺身を手で奪おうとする。

そのたびに横に座っている父親の手が飛んできて、ピシャリと猫の頭を叩く。

それも、並みの叩き方ではない。頭が割れるんじゃないかと思うほど強い。

それにも懲りずラムは何度となく手を出し、そのたびに父親の火の出るような鉄拳をくらった。

でも、どうやらそれは食事時の日常茶飯事の出来事で、妻も母親もとりたてて気にもしていない様子だった。

「ラムはね、2年ほど前に家出をしたことがあるのよ。」妻が言った。

「家出?」

「そうそう。ラムったら山に入ったっきり帰ってこなかったのよ。」

母親が加わる。

「でもね、半年たって、私たちももう死んだって思ってた頃に、ひょっこり帰ってきたの。

身体中、傷だらけでね、おまけに汚くて、最初は誰もラムだと気付かなかったのよ。」

と妻。

たぶん・・・山に喧嘩の修行にでも行ったんだろ。            

   でも、こいつなら、そんな必要もないんだろーけど。

                 それに、こいつにかなう猫なんているんだろうか?・・・

僕は初めて妻の実家に来たという緊張感も忘れ、

膝の上で寝ているラムを見ながら、そんなことを考えていた。

 

 

あれから、7年。

ラムは老いた。

身体もひとまわり、いや、ふたまわりほど小さくなった。

特に最近は口内炎が食道にまで拡がっていて、食べ物もうまく飲み込めない。

身体は痩せていく一方だった。

そんなラムを見るのは、昔を知っているだけに少し寂しかった。

ただ、妻だけは、会えばいつもの調子で、

「なんだー、こいつまだ生きてんのかー?」と、からかってはラムを怒らせ、じゃれ合っていた。

それが、ここ一週間で様態が悪化した。

3日前、義母から電話があり入院させたことを知らされた時には、さすがの妻も気を落していた。

そして、今日になってラムは病院から自宅へと帰された。

「最後だけは、ご家族で、みとってやって下さい。」

獣医は、そう言ったのだという。

家に帰ってきたラムは、しばらくの間、家の中を力なく歩き回っていた。

「猫は死ぬところを人に見せない」と言うが、ラムにはもう、そうするだけの体力すら残っていなかった。

そして、お気に入りだった廊下の一番隅で横になると、ただじっと寝ていたという。

「ラムー。」と義母が声をかけると、しばらくは顔をあげて答えていたが、

やがて、それもしなくなり、

それからは、もう二度と、動くことはなかった。

 

 

僕は、ベランダに出て、タバコに火をつけた。

少しだけ子どもたちの騒々しさから逃れていたかった。

窓越しに台所を見ると、妻は洗い物を続けていた。

泣いているのは、ここからでもわかった。