
前野のじいちゃん・・
僕は本人を前にするとき以外は、彼のことをいつもそう呼んでいた。
昔から知っているというわけではない。仕事で知り合って、まだ7.8年くらいだろうか。
僕の父親とそう歳も離れてもいないのだが、
なぜか「おじさん」ではなく「お爺ちゃん」に感じてしまうのは、
彼が僕のことを初対面以来ずっと孫のように扱ってくれ、そして可愛がってくれたからだと思う。
家業の呉服店を息子さんに譲られてからはまったくの隠居生活で、好きな郷土史の研究をされていた。
年に一度、約半年をかけて、じっくりと、郷土史研究の成果を本にする。
仕事が追いこんでくると、校正や印刷の打ち合せに夜遅くまでお宅にお邪魔したこともあった。
そういう時は必ず奥さんが食事を用意してくれていて、
漁師町ならではの新鮮な魚をご馳走になったりした。
本が出来上がると、祝賀会と称して家族や親戚を交えての酒盛りにも必ず僕を呼んでくれた。
風貌のせいか几帳面で真面目な老人という感じにも見えるが、いったん酒が入れば陽気で明るく、
とくにY談が好きで、奥さんがいるにもかかわらず、
こっちが恥ずかしくなるような話を平気でしては場を盛り上げていた。
その前野さんが急に倒れたのが、一昨年の暮。
それから1年もたたないうちに前野さんは帰らぬ人となった。
僕にとってはあまりにも突然の死だったが、
奥さんやご家族は以前から前野さんが肝臓癌であることを医者から知らされていたという。
仕事の都合で葬式には出席できなかったが、そのあと、しばらくたってから僕は前野さんの家を訪ねた。
見慣れた部屋は、なにひとつ変わっていないように思えた。
机も椅子も、前野さんが生きているときそのままにしてあった。
ただ変わっていたのは、仏壇の中に前野さんの優しく微笑んでいる遺影が置かれてあることと、
そして、はじめて見る1匹の猫だった。
「孫がね、寂しかろうって言うて、買うてくれたとよ。キジ猫って思うとったら、
本当はアメリカン・・なんとかって言うんだってね−。ウチは横文字は駄目やけん−。」
奥さんはそう言うと恥ずかしそうに笑った。
仏壇の前で奥さんと二人座り、手を合わせた。
ふと仏壇の中を見ると、一冊の本が遺影の横に置かれてあった。
「うちの人はあの本が好きでね、ひっぱり出してきては、何度も何度も読み返しよったとよ。」
僕も、その本のことはよく覚えていた。
いや、覚えているどころか、その本によって僕は前野さんを知り、その生き方に触れ、
そして尊敬するきっかけともなった本なのだ。
その本は本来、長い歴史を持つ家業の呉服店のことを紹介するものであったが、それ以上に
前野さん自身と奥さんであるキエさんとの人生を綴った自分史でもあった。
前野栄吉さんと奥さんのキエさんは、昭和19年に出会っている。
当時キエさんは誰もが知っている町一番の美人で、若いものの憧れの的だった。
つまりは栄吉さんの一目惚れだった。
そしてキエさんも、栄吉さんが地元でも有名な呉服店の息子というにもかかわらず、
そのことを一切鼻にかけない気さくさと、その優しい人柄にひかれた。
そして、二人は来年の春にも結婚しようという約束を交わすまでになった。
しかし、時代は太平洋戦争のさなか、当然のように栄吉さんにも赤紙が来た。
町をあげての歓送会の中、キエさんは涙など見せられもせず、戦地へ向かう前野さんを笑顔で見送ったと言う。
その1年後、長崎に原爆が落ちた。
キエさんの両親はちょうど郊外に外出していたため無事だった。
しかし、キエさんは、被爆地から僅か1キロのところにあった大橋町の三菱兵器工場で働いていたため、
そこで被爆した。
命こそ助かったものの、左手と顔にひどい火傷を負った。
包帯がとれ、初めて自分の顔を鏡で見た時、その異様なやけどのあとに言葉を失ったと言う。
右手の指も、固まったまま、もう動くことはなかった。
そして、終戦。
まわりが少しずつ明るさを取り戻していく中、
キエさんはカーテンを閉め切った薄暗い部屋にずっと閉じこもったままだった。
そして、その失意の中でキエさんは栄吉さんとの結婚をあきらめた。
それから、半年後、栄吉さんが戦地から帰ってきた。
帰ってきたその足で、栄吉さんはすぐにキエさんに会いに行っている。
しかし、なぜか、キエさんの両親はキエさんに合わせてはくれなかった。
わけを聞いても、ただ、
「結婚は諦めてくれ。」
そう言われるだけだった。
それでは納得がいかないと、栄吉さんが無理やりに玄関に入ろうとすると、
ようやく父親がその重い口を開いた。
居間に通された栄吉さんの前に、キエさんは現れた。
栄吉さんは、キエさんを見つめた。
栄吉さんは眉一つ動かさなかったという。
「あんたの家は商売ばしとる。それもそこらへんの呉服屋じゃなか。由緒ある呉服屋たい。
そこへ片手の動かんこん子が嫁に行ったら、どがん苦労ばするかあんたも解ってくれるやろう。
それに、あんたにも世間体というものがあるやろし・・
それよりなにより・・・こんなふうになってしもうて、こん子が一番辛かとよ・・・
どうか、こん子のことば思うてくれるとやったら、このまま何も言わんで結婚は諦めてくれんね・・」
父親は涙ながらに語った。
キエさんは、うつむいたまま、ただ黙ってその言葉を聞いていた。
すると、栄吉さんはしばらく考え、そして大きく深呼吸をして、
やがて静かに語りだした。
「わかりました・・・・。
でも、これだけは聞いて下さい。
僕がいま、こうしてここに帰ってこれたのはキエさんのおかげです。
キエさんが待っいてくれるって思ったからこそ、あの地獄のような所から帰ってこれたとです。
苦しか時でも、キエさんのことば考えたら辛くはなかったとです。
どかんことばしてでも、生きて帰ろうって思うたとです。
だからキエさんは僕の命の恩人なんです。
いま、どうしてもキエさんが僕と結婚出来ないと言うのなら、そう言うのなら、
僕は半年だけ待ちます。
その半年の間に、もし、僕よりもキエさんの事を幸せにしてくれる人が現れたら、
その時は僕も男らしくあきらめます。
でも、もし現れなかったら、その時はもう一度、僕との結婚を考えて下さい。」
そういうと栄吉さんは深々と頭を下げた。
キエさんは溢れ出る涙を止めることができなかった。
どんどんどんどん涙が溢れてきて、畳にうずくまって泣いた。
大声で泣いた。
そのニケ月後、二人は結婚した。
「家が商売ばしよるとに、私がこんがん手ばしとるけん、そりゃ−、周りからいろいろ言われたよ。
でもね、あん人はいつも私をかばってくれたと。
だけん、ウチはな−んも辛いことはなかったとよ。」
「だから、あん人が、あちこちに女ば作ってもウチはぜんぜん怒ったことなかとよ。」
そういうと、キエさんは笑った。
僕も苦笑した。
キエさんは、膝の上で寝ている猫を優しく撫でながら言った。
「今は、この猫のおるけん、ぜんぜん寂しくはなかよ。それに、あん人がウチば貰うてくれんかったら、
ウチはずうっーと一人ぼっちやったもんね−、これで寂しいって言うたら、バチのあたるもんね。」
そう言うとまた静かに笑った。
僕は、もう一度仏壇に手を合わせ、前野さんの家をあとにした。
キエさんは何度も何度もおじぎをして僕を見送ってくれた。
僕はゆっくりと駐車場のある港の方へ歩いていった。
前野さんの眠る小山の上の墓地が、夕闇の中、ぼんやりと見えていた。
