
せちがらい世の中といっても、まだまだ世間には、いい人はたくさんいて、
僕の会社の近くにもいい人はたくさんいる。
岡田さんちの婆ちゃんは、いつもニコニコ笑っていて、
うちの会社がここへ越してきてもう10年になるけど、婆ちゃんの怒った顔を見たことがない。
婆ちゃんの家の玄関横の窓はいつも、20センチほど開いていて、
いつもお昼頃になると、どこからともなく、のら猫たちがやってきては、
その窓から婆ちゃんの家の中へと入ってゆく。
お昼ご飯を婆ちゃんと一緒に食べるために。いや、食べさせてもらうためにだ。
「困ったもんだねー、うちの爺さんよっかー、食べるっちゃけんねー」
と、いつも婆ちゃんは言うけど、
僕はそれをもう10年、聞き続けている。
そして、まるで、そういう婆ちゃんの気持ちを知っているのか・・・いや、知るはずもなく、
猫たちは、もくもくと食べ続ける。
うちの会社が越して来て間もない頃のある日のこと。
配達から帰ってきて車を降りかけた僕の所に、岡田の婆ちゃんがあわてて走ってきた。
「お兄さん。ちょっと、猫ば助けてくれんねー」
「うちの家の屋根に登ってから、降りてこれんごとなってしもーたとさー」
行ってみると、確かに、屋根の上で大きな猫が、
ウロウロと屋根の上を、あがったり、おりたりしている。
屋根のすぐそばまで木の枝が延びていて、
登る時はそれを伝わったらしいのだが、降りることが出来なくなったらしい、
猫だというのに。
「太りすぎとるとさー、あん猫は。いちばん、よー食べるとけど、ぜんぜん動かんもんねー。
いつも、てれーっと寝とっとさー」
自分の子どもの事でも話すように婆ちゃんは言った。
「どうして、屋根なんか登ったりしたんですか。」と、僕。
「ほら、あそこにおるメスのノラ猫ば追いかけていったとさー」
「どん臭かくせして、色気だけは一人前あっとやけんねー」
確かに、原因となった当のメス猫は、とっくに降りてきて、玄関前で寝ていた。
まったく。
結局、僕は、ハシゴで屋根に登り、興奮する猫を両手でしっかりと抱き、降ろしてやった。
猫は地面につくと、一目散に、路地の方へと走っていった。
僕の腕にひっかき傷を残して。
